紫苑の里[真理を学ぶために]の記事一覧
2008.03.01 孤独なのは皆同じだと知ること
2008.02.29 頭も心も考え方も柔軟なのが好い
2008.02.29 「私のもの」など何もない・・・
2008.02.26 頭の中の未来は幻にすぎない
2008.02.25 過去へのトラワレは程ほどに
2008.02.24 変化し続けているのだから絶対などない
世の中の誘惑と自分の中の欲望
お釈迦様の教えに、「この世のすべてのものは、いつも変化し続けていて、【いい/悪い】【勝ち/負け】
【役に立つ/立たない】なんて基準は行き当たりばったりであって、本当のは確かなものなどない」
というようなものがありますが・・・しかし世の中の仕組みというものは、まったく逆なことが多い・・・
「もっと欲しい」「もっと認められたい」「もっと気持ちいい思いをしたい」そうした欲が渦巻いています。
そして・・・そうした誘惑も、世の中には渦巻いているものです。それから「欲」から「コダワリ」へと・・・
進んでしまうコトだってあるってことなんですよね。
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自分自身が、心穏やかに安らかにありたい。そんな人生を送っていきたいという思いがあるとするなら。
世の中の誘惑や自分自身の欲に、負けない自分自身でいなければ・・・ならないってことがあります。
そのためにも、ときには・・・(/。\)ミザル<(‐‐)>キカザル(‐×‐)イワザル の精神って必要なのかも。
わたし自身にしたって、そうしたことと・・・日々、自他と向き合い戦ってるものってありますものね。
100円ショップへ出掛け。アレコレとカゴの中に入れて・・・レジへ行く寸前に、「これは余分かな?」と
心のどこかで思ってる自分が居ると、「必要」と入れたモノでなく。「欲しい!」って思って入れたモノを
最終的に戻す戻さないという・・・心の中での小さな葛藤ってありますからね。(笑)
※ このシリーズは、また・・・画像資料を作成したら投稿していきます。
孤独なのは皆同じだと知ること
「諸行無常」(しょぎょうむじょう) すべてのものは変化し続けており、確かなものはない。
「諸法無我」(しょほうむが) 「私」や「私のもの」も確かではない。
言葉では理解できても・・・いくらなんでも、それでは寂しすぎると思うかも知れません。でも・・・
よく考えてみてください。私たちは・・・みんな同じ条件の「孤独」を背負っているということです。
お釈迦様が生きてらっしゃった頃に、子供を喪ったキサー・ゴタミーという実在した母親の逸話が、
いくつかの仏典の中に残されているそうです。それは・・・どのような話しだったのでしょうか?
幼くして亡くなってしまった男の子の死を、キサー・ゴタミーは受け容れることができず・・・
死んだ子供の亡骸を抱きかかえ、家から家へと薬を求め探し歩いたといいます。そして・・・
辿り着いたのが、お釈迦様のもとでした。子供の死を受け容れられずに動転している母に、
お釈迦様は・・・こう、おっしゃったそうです。
「息子でも娘でも、まだ死人を出したことのない家を探して、白カラシの種をもらって来なさい」
すると母親は、言われた通りに・・・探し回わりました。しかし・・・白カラシの種を持っている家は
多かったのですが、死人を出した家など・・・一軒もなかったと、そしてそのときに気付いたのです。
「私の子供だけが死んだのではない。実は生きている人より、死んだ人のほうが多いのだ」と・・・
子供の死を受け容れられたキサー・ゴタミーは、後に・・・おしゃか様の下で出家し尼になったそうです。
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人の「孤独」を「無量寿経」では、こう表しています。
「人、愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。
すべてを自ら この身に担って(になって)いかねばならず、誰も代わってくれる者はない。」
つまり、どんなに愛している相手でも、何らかの形で別れはやってくる。
「私のことをいちばん、わかってくれている相手」と、思い続けてきた相手に裏切られることも、
決して少なくない。それは・・・自分が変化したのかも知れないし。相手が変化したのかも知れない。
しかし・・・そうなることは、最初から解かっていたことでもあるのです。
人は、誰もが・・・元々は「孤独」なものです。誰かに期待したり。誰かの期待に応えようとすれば、
新たな「苦」を、自らが背負い込むことにもなっていくということです。そう・・・心に留めていければ、
逆に「孤独」という「自由」に満ちた人生を、楽しんでいくことだって、できるのですから・・・
頭も心も考え方も柔軟なのが好い
真の「悟り」とは、いかなるものなのだろうか・・・
「仏教」の教えというものは・・・宇宙と繋がっているものが多い。また「霊的真理」にしてもそうだろう。
この宇宙というものには、絶対的な考え方というものは存在しないのだという。
つまり・・・宇宙には、「良い・悪い」という考えはなく。「明るい」が良くて、「暗い」が悪いワケでもない。
「ポジティブ」な考えが良くて、「ネガティブ」な考えが悪いワケというワケでは、決してないのだ。
逆に、このことを本当に理解しておかないと、どこまでいっても「本当の幸せ」「本当の自由」
いわゆる「悟り」に到達することはできないということでもある。
早い話しが・・・「悟り」は、自分自身の中で「差別」を、なくしていくということに他ならないのだろう。
「あらゆるものに対しての差が、なくなること」こそ、「悟り」そのものだということである。
人の観念の中で、最も強い「差」が、「良い・悪い」という「差」を付けることだろう。
これが全ての「差」の根源、根元に位置する観念だと言ってもいい。
つまり・・・その「差」がなくならない限り、どこまで行っても、「本当の平安」が訪れることはないのだ。
しかし、文字に表すほど・・・そう簡単なことでないのも事実。コレを乗り越えていくためにも・・・
「内観」を含め、いかに多くのことと向き合い。その中から自らの固定概念を、払拭していくか。
いかに頭も心も、考え方も・・・より柔軟にしていけるか、ソコに大きな鍵があるのだろう。−福−
「私のもの」など何もない・・・
人生は変化し続けてこそ楽しいのかも知れません。世の中のすべては、変化し続けていています。
それは「私」という・・・自分自身という存在でさえも、変化し続けているということです。
また、その「私」というのは・・・とても、あいまいで頼りないものなのです。
両親にとっては「私」は子供であり、上司にとっては「私」は部下であり、買い物へ行けば・・・
「私」は、お客ということになります。つまり・・・そうした関係性の中で存在するにすぎないのです。
そもそも「私けむという存在は、五つの塊「五蘊」によってできていると仏教では説かれています。
下記の図にある、この五つの要素は・・・どれも常に変化していて、確定的なものは何もないのです。
つまり・・・「これが私です!」と言い切れるものなど、何も存在しないということです。
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私たちが、「これが私」と日頃、思っているものは・・・勝手に作り上げているイメージにすぎないのです。
つまり幻想のようなものです。その幻想と現実とがズレてきてしまうことによって、「私じゃない!」と・・・
感じてしまい。それが悩みとなっていくのです。しかし、「私」という存在はいつだって「私」だと言うこと。
そして、「私のもの」と想っているものも、同じように・・・あやふやだと言うことです。
どんなに・・・大切にしているモノであっても、いつかは壊れるものです。最愛の人だと想っていても・・・
いつかは別れなければならないときがくるのです。なぜなら、人には「死」という別れもあるからです。
自分自身の心身でさえ、想うようにはいかないものです。「私」や「私のもの」と想っているものが・・・
多ければ多いほど、不安も悩みも増えていってしまうばかりです。先ずは・・・「私」も「私のもの」も、
常に変化していて変わっていくものだということを、認めることが大切です。
それによって、人は・・・過去や今の「私」や「私のもの」に囚われることなく。
自ら変わっていくことができるようになってくるのですから・・・
頭の中の未来は幻にすぎない
人というものは、何ヶ月も先のことを心配したり。約束したり。計画してみたり。高価なモノを買うときに、
二十年・三十年というような長期のローンを、組んだりしたりするものです。そうした前提にあるものは、
世の中や自分を取り巻く状況は・・・たいして変わらないというような、根拠のない自信だったりします。
しかし、一ヶ月先に行きたいと思っていた海外旅行の計画が・・・その国で事件が起きたりすることで、
渡航禁止になってしまうことだってあるかも知れません。また明日、友達と食事の約束をしていても、
その日の晩に階段から落ちて、足を骨折してしまうことだってあるかも知れません。
週が明けて会社に出勤したら、会社が倒産することだって絶対にないと言い切れませんし。
自分が想い描いているように・・・期待していた通りに、ならないことだってあるでしょう。
つまり保証されているものなど、ないようなものなのです。
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頭の中で夢を持って・・・予定を膨らませることは、多少であれば希望を持つという意味でも・・・
そんなポジティブな幻想なら、人は元気に前向きになれるかも知れないけれど・・・
未来を心配するという意味合いでの、幻想であるにらば・・・取り越し苦労にすぎなくなってしまいます。
つまり、そんな心配は・・・するだけ損ということなのです。なぜならば、心配してもしなくても・・・
骨折してしまうときはするでしょうし。倒産するときは、倒産してしまうでしょうし。
心配するのであれば、そうなったときでもいいということです。
明日の何かを心配して、いまアレコレ想像したとしても・・・それは、あくまでも想像にすぎません。
いざ・・・明日になってみて・・・そのときが訪れても、想像していたように現実がなるとは限らないし。
本当に、そのときになってみないことには・・・ワカラナイということなのです。
未来の幻想にトラワレテいるくらいなら、その間に・・・今すべきことをすることです。
明日のために、いま準備しておくものだとか。そのときに質問されると想定されることなどへの
答えを用意しておくだとか。そうした・・・今できる準備などを淡々と進めることに時間を使うこと。
その方が・・・明日の準備もはかどり、不安も少なくなり、安心して明日を迎えられるものです。
わざわざ未来の不安を、背負い込んでしまい大切な日を前に右往左往する必要もないのです。
つまり・・・期待も不安も・・・ほどほどにしておくことが、大切だってことなんですよね。
過去へのトラワレは程ほどに
人は過去の経験から、アレコレと学んで成長していくものです。
成功した体験は自分自身の自信に繋がっていきますし。失敗したとしても、その経験は反省することで
将来へと活かし繋げていくコトだってできるものです。けれど・・・逆に過去に、囚われてしまうあまりに
いつまでたってもソコから抜け出せなくなってしまい、前に進めなくなってしまうこともあるものです。
また、一度味わった成功体験の心地好さが忘れられなくなってしまい・・・現実は、決してうまくは
いっていないにも関わらず・・・「また成功する!」とか。「もうすぐ何とかなるはず!」と、いうように
過去の成功に・・・しがみついてしまうこともあるかも知れません。
失敗したことを反省しても、慎重になりすぎてしまい・・・いつまでたっても行動に移せなかったり。
人というものは、ときとして・・・過去を省みるのも・・・考えものだ!なんてこともあったりします。
お釈迦様の言葉に、こんな言葉があります。
「人は過去は追ってはならぬ。未来は願ってはならぬ。およそ、過ぎ去ったものは、
すでに捨てられており、また未来はまだやって来ない。そこで、知者は現在のことがらを
いたるところで正しく観察し、揺るがず動じずして、それを修習すべきである。」
お釈迦様の言葉の意味は、過去に起こってしまったことは・・・もう変えられないのだから、
後悔しても仕方が無い。失敗をして反省をし、気付き学べることもあるだろうが・・・ものごとは、
常に変化しているのだから、次に同じことをするときには、まったく状況が変わっているかも知れない。
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失敗を記憶にとどめて反省することは、機械の操作などのようなマニュアル化されたようなもので
あるならば役に立つかも知れない。しかし、人生の中での一般的なことにおいては・・・
自分自身が変わっていくように、周囲の状況も刻々と変わっているのだということなのです。
つまり・・・必要以上に過去に囚われず、一日、一日を常に新しい気持ちで過ごしていくことが
大切で必要だとていうことなんですね。過去にトラワレすぎてしまうと、今も未来も見えなくなるのです。
変化し続けているのだから絶対などない
ギャンブルにしても、ライバルとの恋の駆け引きにしても、出世レースにしても・・・人は勝負に勝つ!
つまり・・・他人と争うことに勝つことに対して、優越感を抱くものです。私たちは勝負にこだわるのです。
多くの人々は、そうした勝負に「勝ちたい!」また・・・「勝たねばならぬ・・・」とまで思いがちです。
この「勝ちたい!」という気持ちも、先日お話しした「渇愛」(かつあい)のヒトツなのです。
つまり・・・1度でも、勝った経験があると、その心地好さをまた味わいたいと思うものなのです。
そのために、また勝負に挑むこととなり・・・いくら負けても、やがてそれは戦っていること自体に、
心地好さや生き甲斐を感じてしまうようにまで、なっていってしまいます。
けれど、もし・・・戦い続けることに違和感を感じるようになってきたならば、その戦いに疲れたならば、
勝ち負けに、こだわること自体を・・・疑ってみる必要があるのかも知れません。
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すべてのものは常に変化し続けているということです。
つまり・・・勝ち負けの基準も、一定ではないということなのです。
多くの場合は、勝ち負けの基準は・・・いま現在の世の中が押し付けてくるものです。
そこには、未来の保証など・・・何もないのです。
そして「勝たなければ負け」という価値観の意識を、植えつけられているにすぎません。
社会全体や一部の者にとっては、そのほうが都合が良いなどということがあったとしても・・・
もちろん負けたほうが良い!ということでは、ありません。つまり・・・
勝ち負けというモノの基準自体が、いいかげんなものなのだと意識した上で参加すればいいのです。
基準自体が変化していくものであるならば・・・その勝負に勝ったからといって、得意げになったり。
負けたからといって、落ち込んだりするほどのことでもないということなのです。
また世の中の役に立つ・立たないという基準も、世の中が都合のいいように決めてしまっている・・・
あやふやなものだということです。だから、世間に合わせるために・・・ムリしてまで自分を変えると
いう必要は逆にないのです。それは、あやふやな基準だからこそ、いまの自分にあったカタチで・・・
役に立てることもあるかも知れないからです。
ボランティアひとつにしても、体を使って行動に起こすだけがボランティアとは限りません。
自分が、いまできる範囲の中で・・・できることで何かをすることであっても、立派な社会貢献。
役に立てない人など存在しないのです。ただ自分にあったカタチで示せばいいだけなのですから。
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